欽ちゃん“76歳で新番組が絶好調”の奇跡!「オレは諦めてないよ」
(週刊女性PRIMEより引用)
夕暮れの世田谷の大学キャンパス──。授業を終えた学生たちが正門へと向かう中にひとり、明らかに高齢の男が交じっていた。
あ、欽ちゃんだ!」
「バイバイまた明日」
「ビラどうぞ」
周りの学生たちが、彼に声をかけ、ビラを渡したり、話しかけたりしている。年齢からしたら、名誉教授くらいか。いや、彼もまたこの大学の現役の学生なのだ。彼の名は、萩本欽一。そう、あの欽ちゃんなのである。
◇ ◇ ◇
今、76歳の萩本がさまざまな場所で「奇跡」を起こしているのをご存じだろうか。
そのひとつが、2016年からNHKのBSプレミアムで不定期に放送されている番組『欽ちゃんのアドリブで笑(ショー)』である。
この番組は、テレビでおなじみの芸人や俳優たちに、萩本が修業時代に浅草で培った「軽演劇」のノウハウとアドリブによる笑いの極意を伝授するという実験的な番組。
出演者は、劇団ひとり、澤部佑、河本準一、女優・若村麻由美、俳優・風間俊介、前野朋哉、さらに天才子役・鈴木梨央と、今をときめく人気者ばかり。
彼らが、萩本の容赦ない無茶ぶりにどう応えるかが見どころである。
「たまたまNHKが僕に『コント55号』やってくれませんか、と言ってきたの。でも二郎さんはいないからできないよ、と答えたら、若い人とやってほしいと言う。だったら僕が、コント55号の軽演劇を若い人に教えるところをそのまんま番組にするならと引き受けたんです」
軽演劇とは、テーマや物語に重きが置かれずに、娯楽性を重視した芝居のこと。萩本が修業した浅草で生まれた、身体を使ったコントで客を笑わせる芝居だ。
「今、テレビは言葉ばかりになってしまったけれど、軽演劇は身体や動きで笑わす芸。これが実にいい笑いなの。それを再現したかった」
萩本は、NHKの依頼がある前から番組の企画は考えていたという。
「僕は面白いと思ったら、どんどん考えて作っていっちゃう。仕事が来ました、じゃあ何か考えましょう、ではうまくいかない」
台本はなし。衣装と設定だけが決められていて、芝居はいきなり始まり、あとは萩本が指示を出し、それに演技者たちが対応していく。舞台の前には観客がいて、まさに軽演劇の劇場のムード。視聴者は、舞台稽古(ゲネプロ)を見せられている感覚に陥る。
「出演者は、何を無茶ぶりされるかわからないからすごく緊張してる。普段テレビでは絶対見れない顔だよ。その緊張が客席にも伝わる。だからこそ、そこから奇跡が生まれてくるんですよ」
萩本以外は、とりあえず普通の稽古を重ねるのだが、本番で萩本がアドリブでひっくり返すのだ。
「例えば、衣装は学生服とランニングシャツで、妻が家出するのを止める芝居、というのをやらせるんです。卓球をするコントでも、『筋肉痛の人の卓球』とか、ひねった設定にね。すると、必死になって演じるでしょ。結果、物語というか台本が舞台から生まれていく。それが軽演劇なんですよ」
ときには実際、奇跡のようなことも起きるらしい。
「若村さんが、15歳のときに別れた相手と15年後に再会するという設定で、うまい芝居を演ったのよ。相手は結婚しちゃっているという設定なんだけど、悲しそうな顔で“そうね。15年もたっちゃったんだもんね”と言って去っていく。僕はツッコミを入れようと思ったけど、止められなかった。お客さんがポロポロ泣いているんだもの。僕もグッときちゃった。うめえもんだな、と思いましたよ」
この番組は、200人の客がスタジオで観劇するのだが、観覧希望者が急増し、8000通もの応募があるらしい。2018年春から、さらに本数を増やして放送される予定だという。
「これを僕の最後の番組にしたい。そう、ライフワーク。1年以上かけて作っていったら新たな奇跡が生まれてくるよ、絶対」
萩本といえば、まずは’66年に結成された坂上二郎と組んだコンビ「コント55号」が思い浮かぶ。浅草の軽演劇からテレビに進出し、数多くのレギュラー番組でテレビを席巻した。
(25歳のときにコント55号を結成。瞬く間に人気者となる)
’70年代からは、萩本単独で活躍。オーディション番組『スター誕生』の司会に始まり、『欽ドン!』『欽ちゃんのどこまでやるの!』『欽ちゃんの週刊欽曜日』など高視聴率の番組を次々と送り出し、各番組の視聴率合計から「100%男」の異名を取った。また、野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成して監督を務めたり、24時間テレビで70キロマラソンに挑戦したりと話題を集めてきた。
視聴率30%の番組を作ろう!
そんな萩本が出会ったライフワークといえる番組、そこに到達するまでを記録したドキュメンタリー映画がある。2017年11月公開の映画『We Love Television?』だ。
これは、日本テレビの名物プロデューサー・土屋敏男氏が初監督を務める作品。アナログ放送から完全地上デジタル放送への切り替え期である2011年初頭から萩本の番組制作に密着したドキュメンタリーだ。
土屋氏は、『電波少年』シリーズなど数々の伝説の人気番組を手がけたあの「Tプロデューサー」その人。映画誕生のきっかけを土屋氏はこう語る。
(映画を手がけたTプロデューサーこと土屋敏男さん)
「2010年の是枝裕和さんが演出したフジテレビの番組『悪いのはみんな萩本欽一である』に、僕は証言者として出演しました。その控室で欽ちゃんに“土屋ちゃん、僕、視聴率30%取れる企画持ってるんだけどやる?”と言われたんですよ。まだまだ欽ちゃんは終わっていなかった。そこで、アナログ放送の最後に、日本のテレビバラエティーの元祖である欽ちゃんの番組を作ろうと思い立った。それがそもそもだったのです」
’11年1月31日深夜、土屋氏は萩本の仕事場で待ち伏せし、「欽ちゃん、30%の番組を作りましょう」と直撃。映画は、そこから始まる。
萩本の仕事場に置かれたカメラで萩本が自撮りした映像、番組のキャストが決まっていく過程、放送作家との打ち合わせ、稽古シーンなどのメーキング映像が続き、そしていよいよ収録本番を迎える。
「その年の3月10日に二郎さんが亡くなり、その翌日には東日本大震災が起こった。僕はずっと欽ちゃんに伴走する形で生の欽ちゃんを撮り続けていったのです」
実際の番組タイトルも、『欽ちゃん!30%番組をもう一度作りましょう!(仮)』。本番収録は萩本の目指す軽演劇のスタイル。現場は「何が起こるかわからない」緊張感に包まれていた。
結局、番組の視聴率は8%台だったが、萩本の挑戦は「大人の笑い」を作り出すことに成功していた。
それにしても、テレビのメーキングがなぜ映画になったのか。
「番組がオンエアされた翌日視聴率が出た。その数字を見た欽ちゃんが何と言うか、それこそがこの企画のオチじゃないですか。だから、それを撮らなきゃいけないと思った。また、番組では、女優の田中美佐子さんが出演の予定でしたが、体調不良で本番は降板。それも映像には残されていました。
さらに、去年('16年)、欽ちゃんに会ったら、“オレは諦めてないよ。もう1本やる。それで30%目指すよ”と言われたのです。僕はそこに『鬼』を見た。僕はテレビや映画の神様に作らされているような気がしました。そして、’16年に映画にすることが決まったのです」
映画には、BSプレミアムの番組収録の途中で倒れ、救急車で運ばれる萩本の姿も映し出されていた。それは土屋氏のスマホで撮影された映像だった。
「あのとき、僕はたまたま収録の見学に行ってました。そしたら、欽ちゃんが倒れたんで付き添ったのです」
幸いにも倒れた原因は脱水症状だったために大事には至らなかった。
「救急車の中で、この人はテレビの笑いに命をかけているとつくづく思いました。人の生き方として見習うべきことが、この人にはあると確信しましたね」
(映画『WeLoveTelevision?』ポスター)
本番で0にして奇跡を起こす
映画を見た欽ちゃんファミリーのひとり、小堺一機氏はこう言う。
「僕が大将(萩本は業界ではこう呼ばれる)とではなく、ほかの舞台をやったとき“あ、稽古どおりに本番もやるんだ”と驚いたんです。大将は、その場でどんどん設定を変える。“笑いなんて稽古するものじゃない”と常々言ってました。だから、名優と素人は同じなんですね。中途半端に芝居するのがいちばんつまらない」
小堺氏は萩本のこの考えは、勝新太郎と同じだと言う。
「勝さんは“芝居をしなくなるためにするのが稽古だ”と言っていました。“普段どおりにできたら、みんなアカデミー賞だ”とも。大将を見てて思うのは、普通、天才って教えるのが苦手じゃないですか。ところが大将はすごく丁寧に理論で教えてくれる。遊ぶための土台作りは、理論的に固めるんです。理数系な感じがしますね。で、100まで組み立てて、本番で0にする。そして『奇跡』を起こさせるんです。すごいとしか言いようがない。だけど、その話が長い。誰かが止めないと、4時間でも5時間でも話し続けますからね(笑)」
(小堺一機さんは、萩本の番組で関根勤と組み「クロ子とグレ子」で人気を獲得)
気になるのは、このままでは「30%の番組」は、土屋氏の日本テレビではなく、NHKに取られてしまうのではないかということだ。土屋氏が言う。
「僕の映画は、欽ちゃんのライフワークの番組に至るまでの“つなぎ”なんですよ。でも、映画は、欽ちゃんが命を懸けてモノを作っていく証拠になりました。今、若いテレビマンは迷っていますよね。テレビって何だ? 作るって何だ? とね。
欽ちゃんは奇跡が起きるようにやる。偶然、人に出会って物語が生まれていく。今ないものを作ろうとする、その荒野からしか奇跡は生まれてこない。それを欽ちゃんは、あの映画で教えてくれたんです。だから、どこの局の問題じゃなく、テレビ全体の話なので引き続きフォローし追いかけてみたいと思っています」
修業時代、そしてコント55号へ
萩本欽一はどうやって、コメディアンになったのか。
萩本は、1941年、東京都台東区に生まれた。
父親は、大きなカメラ店を営んでいたのだが、萩本が小4のときに経営が傾き突然、貧乏暮らしとなる。
「ある日、お嬢さん育ちだったお母ちゃんが、借金取りに土下座している姿を見ちゃったのね。それで一攫千金ができる仕事をしようとコメディアンを目指すようになった」
アルバイトを掛け持ちして何とか高校を卒業し、浅草の東洋劇場の研究生に潜り込んだのだった。
「でも、修業を始めてすぐに、あがり性の自分には芸人の才能はないと思った。演出家の先生からも“辞めたほうがいい”なんて言われちゃうし。ただ、先輩の池信一さんや東八郎さんが、“あいつの“ハイ”という返事だけはいい”と言って可愛がってくれたのが救いだった」
その後も、演技も踊りもパッとせず、セリフもとちってばかりで芸人としては芽が出ることはなかった。
しかし、ひょんなことからドラムの練習を始めて、叩けるようになると変化が起きた。ドラムの上達に合わせて、一気に踊りもチャンバラもこなせるようになり、なぜかセリフまでとちらなくなったのだ。
何とかコメディアンらしくなった萩本は、東洋劇場の系列のストリップ劇場・浅草フランス座に出向となる。ストリップの幕間のコントで腕を磨けというわけだ。そこで出会ったのが、フランス座の芸人の筆頭、坂上二郎だった。
「いい印象はなかったなぁ。僕が外様なものだから、二郎さんはいつも無茶なアドリブを飛ばしてくる。悔しいから、こっちもアドリブでやり返す。まるで芸の闘い。スリリングで最高に面白かったけど、これ以上やったらケンカになるというくらい火花が散ったっけ」
半年後、萩本はその坂上との闘いに疲れ果て、フランス座を飛び出した。そして劇団を結成したり、テレビにもチョイ役で出演したりするのだが、ほとんど食えなかった。
’66年、萩本は自分で作ったひとりコントのネタを偶然、電話をくれた坂上に話した。
すると、坂上は、「そのコントは、俺と欽ちゃんで演じたほうがいいんじゃない?」と提案する。
こうして『コント55号』が誕生したのである。
それからの2人はネタ作りに没頭し、3か月後には日劇のショーに出演を果たし、テレビからも呼ばれるようになっていった。
萩本25歳、坂上32歳のころだった。
コント55号の傑作&名演コント満載の誕生秘話
最後の握手。さようなら、二郎さん
コント55号の快進撃はすさまじかった。
『お昼のゴールデンショー』で人気に火がつき、『コント55号の世界は笑う』『コント55号!裏番組をブッとばせ!!』『コント55号のなんでそうなるの?』など冠番組が続々登場。『裏番組~』の野球拳が大人気となり、学校でも大流行。日本中で「欽ちゃん」「二郎さん」を知らない者はいないほどだった。
それからも活躍は続いたが、次第に萩本はコメディアンとして、坂上は俳優活動が中心になっていった。
◇ ◇ ◇
2011年3月10日。
萩本は富山での撮影が終わって飛行場へ向かう車の中でラジオを聴いていた。国会中継が流れていたラジオに臨時ニュースが流れた。
「……コメディアンの坂上二郎さんが亡くなりました」
萩本は「は?」という声を上げたきり絶句した。
その前年の12月。坂上は2度目の脳梗塞で倒れ、那須塩原の病院に入院し、萩本は見舞いに訪れていた。
新春の明治座で行われる萩本の新春公演に坂上も出演する予定だったのだ。
「“今回の明治座は無理だな”と弱音を吐いた二郎さんだったけど、よくしゃべるのよ。で、帰り際に“欽ちゃん”と呼び止めて握手を求めてきた。テレくせぇことするなあと思って手を握ったら、ずいぶん柔らかかった。二郎さんは、僕の顔を見てニッコリ笑って何も言わなかった。いま考えたら、あれが“さよなら”だったのかもしれないな。
訃報を聞いてからも、なぜかしばらくは、悲しくはなかったね。何も実感が湧かなくてさ。でもその日の夜、NHKのニュースでアナウンサーが“二郎さん、最高におかしかったですね”と笑顔で締めたとき、初めて泣けてきたんだ」
坂上死去の翌日、あの大震災が発生。坂上の葬儀は、震災の翌々日だった。
「新幹線は動いていないから、上野から宇都宮まで在来線に乗って、そこからタクシーで4時間かけて向かったんだ。大震災の影響もあって、二郎さんの娘さんも参加できず、とても寂しい葬儀だったね」
(コント55号では設定だけ決めてあとは2人のアドリブだった)
74歳で大学生になった欽ちゃん
冒頭で触れたように、萩本は現在、コメディアン、演出家でありながら、純然たる大学生でもある。
2014年、駒澤大学を社会人特別入試枠で受験し、仏教学部に合格したのだ。
萩本は高校卒業後、すぐさまコメディアンの修業に入ったため、大学に通う機会には恵まれなかった。
しかし、’13年3月、長年、座長を務めた明治座公演からの引退をきっかけに、大学を目指すことになる。
「1個やめるなら1個足さないといけないなと思って。何を足そうかと思ったとき『認知症』が怖いなと思った。予防するには覚える癖をつければいい。それもただ物事を覚えるだけじゃ途中で断念しちゃう。ゴールが見えないとダメ。そこで大学受験しようとなった」
実は萩本は以前、駒澤大学で講演し、学長とも面識があった。
「仏教の教えを学ぶというのも悪くない、いつか大学に行くならここがいいな」と萩本は思っていたのだ。
そして萩本の受験勉強が始まった。受験科目は、英語と小論文。予備校に相談し、受験英語のプロフェッショナルの先生を紹介してもらい、事務所の会議室を使って、毎週1回1時間の個人指導を開始。しかし、最初の数か月はまったく英語を覚えられなかった。
「若いころは、セリフでもなんでも5回くらい繰り返せばだいたい頭に入ったのに、この年になるとまったく入らない。先生から“これが一番いい”と言われた参考書も、僕に言わせると『説明書』で、単語や文法の意味を説明しているだけで、記憶する参考にはならない。だから、まず自分用の参考書を作ることにしたのです」
先生から渡された参考書をコピーして、ノートに貼り、覚えやすいように単語には独自の言葉を書き加え、さまざまな工夫を凝らした。
《あど3つ認める admit》
《練習するからプラプラさせて practice》
などとダジャレなどを使い、どうやったら覚えやすいか徹底的に考え、必死にノートを作ったのだ。2か月かけてオリジナルの参考書を完成させ、最終的には14冊の大作となった。
小論文は、とんでもない秘策で臨んだ。
「漢字をだいぶ忘れていたので、とりあえず難しそうな漢字を100個くらい覚えていったのです」
その漢字とは、例えば「燕尾服」「蟹」「鋏」「狼煙」「隙」などである。実際に出題された小論文のテーマの1つは『釈尊について』だった。
「お釈迦様の教えでいちばん大切なのは『命の大切さ』だろうと考えて、それを、覚えた漢字を使って文章にしていったのね」
《命の大切さにおいて蟹ほど優れたものはいない。蟹は敵が近づくと大きな鋏をかざし『俺はこんな大きな武器を持っているぞ』と敵に向かう。しかし、怯んだ相手が隙を見せた途端に逃げる。これこそまさに命の大切さを知ること。人間は武器を持つと必ず敵に向かっていく。しかし、蟹の教えでいくと、武器は戦うための道具ではなく、逃げるための道具なのである》
「で、『燕尾服』も使いたいから、最後は『蟹の心は燕尾服』ってまとめた(笑)」
大学でも起きた気づきの「奇跡」
入試から3年、萩本の大学生活はどうなのか。
「僕が入学した翌年から、受験者数がすごく増えちゃって、仏教学部の倍率も高くなったみたい。だから今の1年生は優秀ですよ。大学側も“受験生を増やすために10年頑張ってきたけど、あまり効果はなかった。それが欽ちゃんが入学してからテレビや雑誌で紹介されてすごい効果があった”と言ってますよ」
萩本は仏教学部で何を学んだのか。
「勉強してわかったことは、仏教では“勉強しろ”とは言わないんだね。“修行しなさい”とか“自分で悟りなさい”と言う。つまり、教えてもらうのではなく、自分で覚えて気づきなさい、ということ。これは学校でも会社でもいえること。勉強や仕事を教えてもらうのではなく、何をすればいいのか、自分で気づくことが大切なんだと。いまさらながら『修行』っていい言葉だなぁと思ったね。昔、コメディアンの修業してたとき先輩に“どうやったらうまくなれますか?”って聞くと“10年やってればわかるよ”なんて言われて、なんで具体的に教えてくれないんだろうとむくれたんだけど、今ならわかる」
(勉強でも仕事でも「教えてもらうのではなく、自分で悟り、気づくことが大事」ということを学生生活を通して再認識した)
大学では親しくなった同級生も多い。その中のひとりの親から萩本は礼を言われたという。
「萩本さんのおかげで息子が変わったんです。以前は大学行くのも嫌だと言ってたのに、萩本さんに出会ってから突然、勉強するようになりました。実家のお寺も継ぐ気はないと言ってたのですが、今では“俺、坊さんになるよ”と言ってくれていますよ」
萩本は「俺、何も言ってないけどな」と言うのだが、自分の祖父ほどの年齢の萩本が懸命に学ぼうとする姿を見た若者は、きっと何かを悟ったに違いない。
萩本が出席する授業は、どこも学生たちでいっぱいになるらしい。教壇に立つ先生たちも萩本を「欽ちゃん」と呼び、やりとりを楽しんでいるという。
「授業中に僕が先生に試験に出る範囲を教えてくれるように甘えたり、いろんな駆け引きをしてみたりね。大学では、先生は僕のいい相棒をやってくれる。大学の珍道中も面白いよ」
萩本の存在は、大学の構内でも不思議な化学反応を生み出し、いくつかの「奇跡」を起こしていたのだ。
「こないだ、同級生たちと飯食いに行こうというんで、僕初めてバスに乗ったの。そしたら、座席に座っていた学生が僕を見て全員、立ち上がった(笑)。“おーい、俺はひとりしかいないんだから”って」
萩本は、自分の死後の計画も立てていると言う。
「僕の葬式の挨拶の順番も考えてる。2番目の挨拶は勝俣州和。元気がよくてひどいこと言うからね。で、小堺と関根は、達者だから挨拶させない(笑)。1番目? それは斉藤清六と思っているんだけど、彼は意固地だから嫌がってるんだよね」
さらに、お墓を建てる予定まであるらしい。
「大学で仲よくなったやつのお寺が群馬にあるのね。そこに、『欽ちゃんの歴史記念館』とお墓を建てさせてもらうつもり。お墓にはお骨じゃなくて歴史を埋めたい。ファンの人もそこに入れるようにして、名前が刻めるようにしてね。お墓に手を合わせるんじゃなくて、“欽ちゃん、来たよー!”って手を振るようなお墓、ね、いいでしょ」
まったくこの人は、どこまでも現役なのだ。
土屋氏の言葉が印象深い。
「欽ちゃんという人は、とにかく終わらない人なのです。しゃべりだしたら止まらないように、人生もそう」
実際、今回のインタビューも記録的な長さに及んだ。
萩本欽一──まさに「饒舌な人生」なのであった。
(以上引用終わり)
(高校3年のころ、母と姉と。コメディアンを目指す気持ちが固まっていた)
(東洋劇場に入ったころは、芸人には向かないと言われていた)
(珍しい家族写真。妻は修業時代に萩本を支え、その後、結婚)
知らなきゃ損!美味しい裏技!!
(女性セブンより転載)
モス、てんや、丸亀製麺…、知っていたらお得な裏ワザ6選
丸亀製麺の「釜揚げうどん」が半額に!?
有名ファミレスやファストフード店には、メニューには載っていない“裏メニュー”や、知る人ぞ知る“裏ワザ”が存在する。ここでは、バーミヤン、ロッテリア、カレーハウスCoCo壱番屋、モスバーガー、天丼てんや、丸亀製麺の6つのチェーン店で、知っていたらお得な裏ワザを紹介します!
【バーミヤン】
数十種類に及ぶ中華メニューを手軽に楽しめる『バーミヤン』。のんべえに嬉しいのは、「焼酎のボトルキープ」ができることだ。
「ボトルキープすれば通常324円のドリンクバーが1人159円で利用できます。お勧めはいろいろなドリンクで割ってオリジナルの焼酎カクテルを作ること。今はファミレスの“ちょい呑み”が流行っているので、中華をツマミにボトルを利用してみては?」(フードジャーナリストのはんつ遠藤さん)
【ロッテリア】
「エビバーガー」や「絶品バーガー」シリーズが人気の『ロッテリア』には、スーパーばりの“特売日”がある。
「毎月10日、20日、30日は『ロッテリアの日』として特定の商品が大幅に値下げされます。ポテトやシェーキが半額になることが多い」(遠藤さん)
ちなみに9月の当該日はポテトが全品半額だ。
【カレーハウスCoCo壱番屋】
基本のメニューが多いうえ、トッピングやソースの辛さを細かくチョイスして“マイカレー”を楽しめるココイチ。格安ファミレスより値段はやや高めだが、それを補う“お代わりサービス”があることは知られていない。
「ココイチではご飯が余ってしまった時、一度だけ無料でルーをお代わりできるんです」(遠藤さん)
いつもルーが足りなくなるという人には朗報のはず。また、基本的に割引クーポンなどはないが、たくさん食べる人は賢く頼めばお得になる。
「ココイチのライスはレギュラーで300g。大盛りにすると100g追加で103円かかりますが、単品のライスだと同じ値段で150gになる。大盛りにするより、単品ライスを追加したほうがお得です」(遠藤さん)
【モスバーガー】
モスバーガーは国産の野菜をたっぷり使ったヘルシーメニューが売りだが、ねらい目はバーガー類ではなく「コーヒー」だ。
「1杯250円のプレミアムブレンドコーヒーが2杯目は100円になるんです」(遠藤さん)
1杯目購入時のレシートを同じ日に同じ店で提示すれば2杯目が割引となる。スターバックスの“ワンモアコーヒー”サービスと同様のサービスだが、モスバーガーの値引はあまり知られていない。
さらにお得なのが、コーヒー・紅茶6杯分1100円の回数券だ。400円分を浮かすことができる。
【天丼てんや】
高級なイメージのある天ぷらメニューがワンコインから食べられる『天丼てんや』では、毎月18日の「てんやの日」に嬉しいダブルチャンスがある。
「1日限定で税込み390円の『390(サンキュー)天丼』が販売されます。通常の天丼とは若干中身が違いますが、この値段は何ともお得。しかもこの日は翌月17日まで使える100円分の割引券ももらえます」(遠藤さん)
【丸亀製麺】
うどん好きのラッキーデーは毎月1日。北海道産小麦と塩と水だけでつくる自慢の「釜揚げうどん」が全てのサイズで通常の半額以下になる。
「1日以外にも丸亀製麺は期間限定の格安メニューが多いので、ファンは要チェックです」(フードジャーナリストの阿左美賢治さん)
元経済ヤクザだからわかる、北朝鮮「過剰な挑発」の真意
(現代ビジネスより転載)
2017年9月3日、北朝鮮が6回目の核実験を実施した。北朝鮮側は原爆より強力な「水爆実験の成功」を発表しているが、通常の核爆発より威力が強力だったことは観測されている通りである。
さて、今回は「元ヤクザの眼からみた北朝鮮問題」を論じてみたい。北朝鮮はいわば国際社会のアウトローだ。彼らの行動は、一般社会の眼でみれば非合理的だが、同じアウトローの眼からみると、その目的や狙いが良く見えてくるのだ。
元経済ヤクザだからわかる、北朝鮮「過剰な挑発」の真意
石油取引で知ったアメリカの本当の怖さ
現在、アメリカによる空爆のXデーは2説ある。一つは、『週刊現代』8月19・26日号で、ドナルド・トランプ米大統領(71)が安倍晋三総理(62)に伝えた話として報じた「9月9日」説。もう一つが9月20日の新月に前後した説である。
9月9日は北朝鮮の建国記念日。昨年核実験を実施した前科があり、この日は金正恩党委員長を始めとする北朝鮮のトップが集うのだから、空爆を実施するとすればターゲットは「人」だろう。また、20日の新月を前後するのであれば、ターゲットは「軍事施設」と予想される。
米朝の緊張は高まる一方なのだが、超大国と小国がぶつかり合う背景と結末をヤクザのロジックで解き明かしてみたい。
私は常々アメリカを「巨大暴力団」だと考えている。根拠は強烈な自己体験があるからだ。
それは石油をめぐる取引に関連したものだった。03年ごろ、中国が石油の備蓄量を大量に増やしていくのに合わせて、04年ごろから日本の経済ヤクザが石油を求めてドバイに集まっていた。しかしその多くは中国への買い手側だったため、私は売り手側に立つことにした。
売っている油を買う仲介業より、安い石油を仕入れて高く売る方が儲かるに決まっているということで、私は紛争地からオイルを買うことを選び、成功したのだった。
この時にわかったことは、石油がほぼ「ドル」でしか決算できないということだった。どれほど中東が英米を憎んでも、契約書は英米法に基づいて作成され英語で書かれている。ドルが国債基軸通貨となったのは、1944年のブレトンウッズ協議以来で、当時アメリカに世界の金地金の3分の2が集まっていたことがその理由だ。
しかし、72年のニクソン・ショック後もなおドルが基軸通貨であり続ける理由は、武力によるところが大きい。いつ潰れるかわからない国の通貨より、絶対に潰れない通貨の方が安全であることは自明の理だろう。不沈国家を担保しているのは米軍という世界最強の暴力である。
単身石油ビジネスに参入した私の元にはやがて、「取引先を紹介して欲しい」「そちらの口座にお金を入れるので石油を分配して欲しい」などの人的繋がりができるようになっていった。
そのうち私の口座があるイギリスの銀行から「当行では個人口座の規模を超えている」という連絡が入るほどの成功だった。そこで私は知人の紹介で、オフショアであるバハマのバンク・アルタクア銀行に口座を移すことにした。
知らずに触った石油取引が莫大な利益を生み、250億円ほどに膨らんでしまった。ところが、だ。突如バンク・アルタクアはアメリカによって制裁対象にされ、銀行ごと没収されたのである。
当時私は現役の暴力団員だったが、石油のビジネスはすべて合法だった。後でわかったのだが、私を経由した資金の一部がアルカイーダの関係者のもので、バンク・アルタクアには多額のテロ資金が流れていたとのことだった。
私が貯めこんだ金もすべてもっていかれてしまった。黙って監視をして、ある程度膨らんだら根こそぎ収奪する――アメリカは暴力団そのものであると実感したのはその時だった。
この一件以来、私に対する監視が強まり、イギリスではパレルモ条約で拘束されることにまでなったのである。
石油はドルが支配する戦略物資で、個人が触れるべからざるものであることを痛感し、二度と石油に関わらないようにしたのだった。もし石油を触りたいのであれば、アメリカの勢力圏に事務所を構え、アメリカにきちんと税金を支払うべきなのだ……。
さて、ではなぜ北朝鮮はアメリカを挑発するかのようにミサイル発射実験を行うのか。アメリカが「巨大暴力団」であるという前提に立ち、これを解説しよう。
北朝鮮は「アメリカの沈黙」を恐れている
まず理由の一つが「沈黙の回避」である。暴力団が相手(暴力団)を強迫する際に「いわす(殺す)ぞ」「沈めるぞ」と言葉にしているうちは実は安全なのだ。一番怖いのは「沈黙」で、相手が「沈黙」したときこそが次にアクションを起こすサインなのである。
つまり、アメリカが沈黙した時こそ、本気で仕掛けてくるということだ。北朝鮮はアメリカに沈黙して欲しくないので、挑発をしながら言葉を引き出しているのだ。一連の挑発行動こそ、まさに外交安全保障として機能しているのである。
もう一つは、ミサイルの発射実験が武器ビジネスの「最高のショーケース」になっている点だ。ICBMは北朝鮮製の武器のフラグシップモデルであり、その性能を見ればお客さんは「北朝鮮製の他の武器も良い性能に違いない」となる。
しかも一回発射すれば世界中で報道してくれるし、多くの国の調査機関が性能まで割り出してくれるのだから、宣伝活動にうってつけということになる。
さきほど、石油はドルが支配していることを明らかにしたが、ドルが支配するほかの取引に「武器」と「穀物」である。
今年3月、北朝鮮についての気になるニュースがあったことをご存知だろうか。それは、SWIFT(国際銀行間通信協会)が、北朝鮮のすべての銀行に対して銀行間決済に必要な通信サービスの提供を停止するというものだった。これは北朝鮮が外貨――特にドルを獲得するルートを遮断されたことを意味している。
燃料と食料が欲しい北朝鮮としては自国産の武器を販売することで、是が非でもドルを手に入れなければならないのだ。昨年わずか5回しか行わなかったミサイル発射実験が、SWIFT遮断以降9月まで11回も行われている事実がその根拠といえよう。
ではミサイル発射が兵器のショーウインドーだとすれば、9月3日の核実験はどう考えたら良いのか。現在の世界情勢から考えると諸外国で核実験はほとんどできない状況だ。あのアメリカでさえ臨界核実験に切り替えて、爆発させずに核兵器の品質を維持しているほどである。
しかしこの地球上で、そうした非難を一切気にせずに核実験を行える唯一の国……それこそが北朝鮮にほかならない。核開発は北朝鮮が独占分野となっているのである。
これがクライシスの正体
第三諸国に核爆弾を流出させれば世界中から非難され、激しい経済制裁を受けるのだが、これに耐えられるのも、これ以上ないほど強い経済制裁をすでに受けている北朝鮮ただ一カ国。
イランを始めとして「核」が欲しい国はたくさんある中で、核マーケットは北朝鮮が独占しているのだから、核実験はミサイルとは違う面でのショーケースと言えるだろう。イランは産油国であり、北朝鮮への油の供給源となりうることはあえて付記しておきたい。
第13代FRB(連邦準備制度理事会)議長のグリーンスパン氏は回顧録に「イラク戦争は、主として石油の為であった」と書いて大騒ぎになったことがある。
当時、フランスはイラクに「石油決算をユーロで行えば条件を有利に取引することと、武器を供給すること」を持ち掛けた。石油と武器のドル支配を崩したくなかったことがアメリカがイラク戦争に向かった動機の一つである。
しかしこのまま北朝鮮を看過すれば、アメリカの武力神話が崩壊し、それはドルの威信に傷をつける事態になりかねない。それでもアメリカが北朝鮮の暴挙を看過してきたのは「統一資金」の問題がああるからだ。
09年、ドイツの主要4経済研究所の一つ、ハレ経済研究所は、東西ドイツ統一にあたって1兆3000億ユーロ(現在のレートで、約170兆円)もかかったと発表した。
11年には韓国統一省が、南北統一に必要な費用について「30年に統一すると事前に約53兆円、事後に約184兆円かかる」とした。
ドイツは統一の経済的インパクトに耐えられたが、実に237兆円もの天文学的数字に韓国が耐えることはできない。その尻ぬぐいをさせられるのは、アメリカだ。ババを引きたくないアメリカとしては、北朝鮮を崩壊させる形の南北統一は避けたいのだ。
さて、独立系の小さな組織が大組織と渡り合って生き残ることがヤクザの世界でもあるのだが、この時、独立系の組織は他組織の動きを見ながら巨大組織と戦うのが常である。
この状況での別組織とは、北朝鮮がアクションを起こすたびに非難めいた声明を出す中国・ロシアだが、両国ともに世界で存在感を示せるのは北朝鮮をコントロールできるということだから、おとなしいよりは少々暴れてくれた方が助かることを忘れてはいけない。暴れる舎弟を「まぁまぁ待てや、そのへんにしとけや」と言ってなだめるようなものなのだ。
こうした状況を北朝鮮もわかっていて、実際に空爆されないギリギリの線を探りながら、ミサイルと核実験で営業活動をしている。それが朝鮮半島クライシスの正体なのである。
猫組長